正康より和志が好き

IWJの岩上氏の連ツイ、彼と保坂正康氏との対談を眺めながら、これが保坂和志相手だったらどうだっただろう?などと考えていた。
リベラルと保守、なんて分け方してるけど、じゃああなたはなんでリベラルであり保守なの?というところが見えてないとおかしいし、それがあからさまな対立軸ならリベラルならこう、保守ならこう、という空気感のようなものが当然あってしかるべきなわけで。
みな「カネに転ぶ」政治家をバカにするが、じゃあカネでない何によって人は立場を決めるものなのか、を考えれば、そこにはロンリだけでない、美意識、通念、土着性もろもろが当然あってしかるべきなのだ。なんとなく、Twitterでブンカロンやってる人たちの断定的な言葉が、保坂和志の文章を読んでいるととても空虚に思えて来る。「ネトウヨには守るべき日本の実像がない」ことはここで何度も触れて来たが、何かを取り落しているなあ、と感じてしまう相手はネトウヨだけではない。
もっとも、保坂和志自体は「小説家は働き者ではいけない」「働いているとき人は考えていない」などと言い出す人だから、今の国難に立ち向かおうとする人たちのテンションとマッチするわけがないのだが、彼自身が脱原発であることを明かしてはいたりして、企画として不可能ではないような気もしなくもない。
こんなことを思うのは、明治維新以降突然降って湧いた日本のナショナリズムと、それへのカウンターとして湧いた戦後のミンシュシュギ、どちらかを是としうるだけのものさしを依然、我々は持てていないのではないかという疑念があるからだし、それを決めるのはロンリでも上司でも恋人でもない、小説が扱って来たような(屁の役にも立たないが)根源的なものへの問題意識だろう、という確信があるからだ。そういう目線を自分にもたらしたのが保坂和志の本だった。
「民衆はバカ」みたいな中二的発想がイヤで、これまで自分は「生活の現場」「人の情」といったものを自分の中から取り落さないよう努めて来た。しかしそうやって見えて来る世界は、それを「小市民的、しがらみにしがみつくくだらないやつら」と見做す(主に)ネトウヨたちには通じるまい。そこまではなんとなく分かる。
じゃあとっとと「民主主義」の再検証を始めようや。我々ニホンジンにとって生きるってのはなにが一番すばらしくてなにがつまらないのか、そういうところをしっかり見据えられるようになろうや。何もできないなら、せめて。
保坂和志Twitterに現れたらたぶん、そういうところを突き詰めて行ってくれる人、増えるんちゃうかな。少なくとも性急すぎる断定で物事を分かったように語「らなければならない」という強迫観念から、少しみな離れてくれるんじゃないかな。などと他力本願なことを考えて、
…結局自己嫌悪。