男はダメだ。←これが大前提でないと

トシとると男はダメだなあ、とつくづく思う。
デイサービスだと特に顕著。あの「なにするわけではないけど楽しく過ごしましょう」という場に適応できないのは大抵が、男だ。
理由は分かり切っている。「生きるとはことを成すこと」みたいな司馬竜馬的人生をバカ正直に歩んでいるとそうなる。○○してるからオレ、○○してるオレこそがオレ、みたいなアイデンティティなんて、要介護もらうようなトシになればもう崩壊するしかなく、かといって他愛のない話で一日が充実できるほど「暮らし」に馴染んでいない。ちゅうぶらりんになったアイデンティティを何とか発現せんと気張っちゃった利用者さんは大抵いわゆる「問題行動」を起こしてしまう。
男って、哀しいね。という話なのだが、それだけで済ませてしまうわけには行かないと思うのは、自分自身がそういう傾向のある人間であったこともあるし、介護職という仕事をやって行くためにはそれではいけないのが目に見えているからだ。
台所仕事や家庭の和を築く努力といったことを、今要介護やってる男のほとんどは「家庭のことはおまえがやれ」と奥さんに丸投げしてきた。それが許された時代だったが、今はそうではない。話は昔の自分の肩書自慢ばかり、という典型的ダメオヤジ、ならぬダメジジイに彼らがなってしまったのは家庭丸投げという「世代の罪」によるところが間違いなくある。
「オレはこれしかできないから」「不器用なんで」をイイワケにできるのは、それを許してくれる奥様がいる男のみ。それを失い、自分で自分の世話もできなくなり、彼らは今、多分野垂れ死により情けない気持ちで日々を過ごしているのだろう。
ああならないようにしなければ。
「オレはこういう人間だからさあ」と言える自分は、それを言わせてくれる誰かに感謝し、報いていかなければ。それにはどうしなきゃならないかを必死で考えなければ。
とか思いながら仕事を終え、帰宅すると、某SNSで「俺はこういう奴だから!」と哀しいけど甘ったれた叫びを上げる人がTLで暴れていた。
政治、という無味乾燥な場でその叫びはとてもリアルだ。それを言うことが破滅であるというリスクを多分彼は分かっているのだろう。けど、政治の話だからこそ捨てなければならない私情って絶対ある。体が弱くて体育会系のノリは苦手、みたいな雰囲気の人の話には「ご立派に語ってるけどよーするにあんた自分で動きたくないのね」と言いたくなる時がどうしてもあるし、オレが大嫌いなロンリロンリの人って大抵その自分の殻を棚上げてる。誰もが自分の得意なやりかたでやれればいいのだが、本人の「不器用ですから」「オレはこういう奴ですから」を許容してくれるはずの対象など政治論の輪の中にいるわけがない。「不器用ですから」な自分を晒す、というのは、自分の不器用さを許容してくれる対象を求めるのと同義なのだが、そういう泥臭い関係性って、政治「論」クラスタな人は苦手なんだよね、たいてい。むしろそういうしがらみの中で生きるのがイヤだからロンリロンリに逃げ込んでるんだろうなあ、と思わされる人がとにかく、多い。
けどなあ、と、どうしても考える。
世の中を動かそうって人がそれで、いいの?と。
あの手の輪の中でうまくやれてる人ってのは、やっぱり自分の「不器用ですから」の晒し方もうまいし、そういう人の言葉だから信用できる、みたいな観点を持たざるを得ないところがある。それってもう、論理とかじゃないんだよね。
こういうのを「反知性」とか言われちゃ、流石に、やっぱり、それはちょっと。