Say no more.

自分が「こうであるはずだ」と考えた理屈を世間が無視していたとき、まず
1)なぜ「こうであるはずだ」という結論に自分は達し、
2)それが世の中にどのようなメリットをもたらし
3)それが世の中の何に不都合で
4)それらのバランスがどうなることが世の中にとってベストか。
くらいは考えないと。なんで本で読んできたばっかりみたいな理屈を定規に世界を測ろうとするかね。計測値が違うことの意味を考えないかね。それも「世の中に絶対なんてないんだー」とか言ってたはずのおっさんがたが。
「原則こうだが、この場ではこういう事情があるためこのようにした方がよい」
みたいなことなんて、国際社会とかの問題に限らず、それこそ台所仕事の中にだって転がってるじゃないか。
要するに「なんのためか」が見えていない。決まりごとはなんのためにあるか。そういう大前提をどこかに、うっちゃってる。
最近「このクソサヨク」みたいなことを言う人のツイートを眺める機会が多いため、彼らが「クソサヨク」の何を嫌っているかを改めて検討しているのだが、基本的にそいつ自身が↑みたいな「ナントカ理論を世の中に当て嵌めるのが楽しくてしょうがない人」であるケースの他に、↑みたいな屁理屈で喜んでるだけの、理屈転がせている自分に酔ってる姿そのものを「サヨク」の典型と見做してる人が結構いるな、と思うようになった。
「誤解」だろうかね?「火のないところに煙は立たない」とも言いますけど?
だいたいやね、「あれ?これで間違いないはずなのになんでみんな違うようなこと言ってんの?」みたいなことになれば、みんなが何を思って自分と違う見地に至ったか、くらいリサーチするでしょ?リアルな人間関係でさえも。それをネット上の(一応)論壇でなぜできないのか。いい大人が理屈に酔っぱらえるのか。「同調圧力に屈してはいかん」みたいな屁理屈でそういう努力を放棄してしまうのか。
あれこれ観察しても、そいつが子どもみたいな大人になってしまっている原因を探っても、どーしてもそこに良心的な原因が見い出せないのなら、そりゃもう「かまってちゃん」とか「承認欲求」とかを持ち出すしかなくなるってことを分かってるかな。彼ら彼女らは。
「だから『轢き潰す』なんて言われるんだってーの」
とかツッコミたくなる人、実際いるね。