思考のための営み

夏至の頃どうしても読みたくなるのが岩明均の「七夕の国」。夏至なのになんでこれなのかはマア、読んでみれば分かること。
ある秘密を知ってしまい、苦悩しつつも共有する田舎町。その秘密に迫ろうとする研究者、そしてそこで起きる奇妙な出来事に関わりを持ってしまった「フツウの人」。これだけ書くとなんかバイオレンスかファンタジーか、みたいな話に聞こえるかもしれんが、そこは岩明均。生活感、日常感覚に重きを置いて、そこから飛び出す非日常をやたらとショッキングに描写している。
ナニがいいって、ずっと考えてた問題の手がかりが頭に去来した時の興奮、雲を掴むようなそれを手繰り寄せる焦りと緊迫感、そして考え抜いた末に結論に至った瞬間の脳内麻薬どんだけ出てんのよ的な衝撃を、これほど活写したマンガは多分、他にないんじゃなかろうか。そういったことばかりしてられた頃のことが胸のうちに蘇る。主人公らが大学のゼミ仲間というのも手伝い、大学生だった頃を思い出すのだよね。
ああいった「思考のための営み」に没入してられた頃って、やっぱり幸せだったなあ。
もっともあの頃の自分には今の自分の思考回路など分かりっこない。ただ、やたら牧歌的なキャンパスの外に広がる「一般の営み」が漠然と怖かった覚えはある。キャンパスから出て知った景色を以て初めて自分という人間は始まっている。大学時代をもういちどやり直せる機会が降って湧いても多分そっちには行かないだろう。それでも、ひとつの命題についてひたすら考え抜くことが許されたあの時間のことが、今はとっても眩しかったりもするのだ。
例えばゼミで初めて地理学の本物の論文に触れ、大体読みこなせるようになった後、突然日本民俗学の論文に挑むとなにがなんだかさっぱり分からなかったりする。同じ「論文」でも問題意識が違う、目指す結論も違う。当然方法論も違って来る。有体にいえば「文化」の差に近い。自分の知った世界が、本物の世界の中のほんの一部分でしかないことを、学生はそうやってまず思い知る。そういう機会を何度となく通過しているはずの「学者」ってのは、だからこそ侮れない。論理に照らせばあらゆる議論は平明に見えるはず、なんて真顔で言える学者なんていないはずで、その点Twitterの議論?には大抵閉口することになる。「論理に照らした(つもりな)のに平明に見えてこない」ものを批判するまでで終わってしまうんだよね、彼らは。そうやって別な「文化」に触れる機会を自ら消し、お山の大将化してしまった輩をどれだけ見ただろう。
自分が「分かった」と思い込んでることは世界のほんの一部分でしか通用しない何かでしかなかった、と思い知ったとき、それでも前に進むにはどうするか、そのときどこが「前」なのか。自分は何を「分かろう」としたのか。そういう観点を厳しく持つことができただけでも大学へ行く意味はあった。あのめくるめく「思考のための営み」を思い出しつつ、そう思う。