「格差反対」の原風景

中学校の頃、家が貧乏な親友がいた。仕事がよく変わる父親から「俺はロクに勉強しなかったがお前は高校までは行け」と言われていたという。しかし塾に通うような金はない。
そんな中でヤツはあくまで自分で勉強をして進学校と呼ばれる高校に行き、受験戦争最高潮の頃の大学受験で某有名国立大に入った。受験は大変だっただろうが、バブル期だったのが幸いして、学費生活費はすべて自分でバイトしたのだそうだ。「大学まで行かせる余裕はない」と断言されたかららしい。
生まれというのは間違いなくあることをそいつのおかげで知った。高校教師という、当時はそれほど高収入とは呼ばれなかった職業の父を持つオレだが、そいつに「だからボンボンは」と吐き捨てられたことが二度ある。どちらもよく覚えている。大変ショックだったし、腹が立った。
さきほどTwitterで格差の話を眺めていて、ようやっと合点した。要するに自分が「格差は是正されなければならない」と無条件に思っているのは、そいつに「ボンボン」呼ばわりされたくないからみたいだ。
きっと、こういう気持ちを概念として文章化してくれるものはたくさんあるだろう。けど、自分の言葉で格差を語る時はオレはこの腹立たしさを言うと思う。
「オカネモチはいいよな、親の金で好き勝手しやがって」と好きな人たちに言われて、あんたら何とも思わないんか?