異人種と言ったら負けよ

本多勝一、なんて言うと、現代ネトウヨ天国で称賛するとお縄についてしまいそうだが、彼の「事実とは何か」は今現在だからこそ示唆に満ちている。
いくら歴史学が客観を否定しようが、今ここで女の子のケツ触って「なにすんのよ!」と言われた時「いやこの世に100%の事実なんて存在しないのだから…」などと言えるものではない。事実はある。ただそれを100%受け取るだけの手段がないだけだ。じゃあその受け取りがたい事実をいかにジャーナリストとして伝えるか、という本である。
ジャーナリスト志望者必読なんて言われていたが、今はどうなんだろう。
事実の捉え方にもいろんな流儀があるもので、文化人類学は「比較」というのがそのキーワードになっている。これは前身である「民族学」が、未開の地に行ってみたらほんとに未開でうわだっせぇ、みたいなことをさんざんやってきたことへの反省から、自分らの持つ文化と、フィールドワークなどに出掛ける土地の文化をただ「比較」し、その優劣を問うことなくその流れや成立を探っていくという学問になった。文化に優劣がある、なんて考え方をしていては務まらない。そうやることで西洋文明というものは帝国主義みたいな世界の真ん中気取りから脱却し、自らの文明を見直す視点というのを獲得した。中国の奇妙な風物をぎゃーぎゃー囃したてる連中に一番必要な姿勢だろう。
そういう意味で、いや、いろんな意味で、高野秀行の「謎の独立国家ソマリランド」はとんでもない本だったなあ。あの人にしかできない取材で、誰も成しえなかったソマリアの内情をこれ以上ないんじゃないか?ってくらいの精密さで伝えてくれる。高野秀行についてはいろんな人が書いているので私が言うまでもないが、とにかく行った先がアフリカだろうと南米だろうと、そこの人の気持ちになってしまう。そこの人の仲間になってしまう。そうすると、たとえ傍目にはとんでもない奇習であろうと、「にんげんとして」納得できる理由や原因があることが見えて来る。
すごく元気が出るのは彼の素っ頓狂な行動に笑わされているからだけではない。きちんと付き合えばどんな相手であろうと「にんげんとして」の共感が可能なのではないか、という希望が頭をもたげるからだ。
だから、中国人ころせーとか騒いでるバカも、信条がまるっきり逆で絶対に同士たりえない人とも、道を同じくはできないまでも心を通わすくらいまでならできるんじゃないか、という希望を持っていられる。甘いとか世間知らずとかは言われるまでもない。それでも、なにかしらの会話が持てない限り争いは続くのだ。
都知事選は宇都宮氏しかありえないと思っている。だからこそ他と和解する方法はイメージしなければならないと思ってる。安倍さんともなにかしらの和解がなければこの国は止まらない。