「歴史教科書」のはなし

本屋に立ち寄った際、このような本が面陳されていて、さすがにもう笑ってしまった。
常識から疑え! 山川日本史 近現代史編 上 「アカ」でさえない「バカ」なカリスマ教科書
「山川教科書の常識は世界の非常識」
「そもそも歴史学の役割は、自国を正当化することにあるのです!」
「どの国の教科書も自国有利があたりまえ」
「アカですらない!」
いやいやいや...。
表紙に書かれた挑発的(笑)な文句を読む限りにおいて「嫌なら読まなくていいよ」というたぐいの本であることは察せられたので、まあそのような配慮(?)に感謝し、購入は控えさせて頂いた。もと書店員人文棚担当としては、このような本が「売れています!」みたいなことになるのは耐え難いものがある。
なので、これから書く文章は評でもなんでもなく、上記の「そもそも歴史学...」というキャッチを見て心に浮かんだよしなしごとってやつである。あらかじめ、お断りさせていただく。
私の父は、生前山川世界史の教科書の執筆者に名を連ねている。その父がもういつのことだったか、どっかの戦争のニュースで「互いの国民の代表が双方の言い分を言い合う」という企画を視聴しながら突然怒り出したのだ。
「お互いに都合のいい歴史を勝手に作って勝手に教えてるからこういうことになるんだ!」
政治とかについて茶の間でベラベラ語るようなことを嫌っていた父なので、これには居合わせた家族全員が驚いた。京都大学を卒業しながら生活上の理由から研究者になれず高校教員へ。それでもいつもなにかしらの研究書を眺めている、そんな父が政治について家族に語ったのがこれだけ、というのはハタから見て異常だろうが、そういう男だったのである。この時もひとこと、怒鳴りつけるように言った後は黙り込み、不機嫌そうにニュースを眺めた後、スタスタと書斎に籠ってしまった。
父は外国でどのような歴史教育が行われているかそれまで知らなかったわけではない。彼の書斎には「世界の教科書シリーズ」が机に無造作に積み上げられていた。カーの「歴史とは何か」もしっかり本棚にあったわけだから歴史学の相対性、というか客観という世界からの遠さも当然、認識してはいただろう。要するに彼は、「それでも」と、いいトシこいて考えていたのであろうし、そういう情熱をもって教科書の執筆に携わったのだろう、と、今さらながらに思う。
「それでも、客観的で、どの国の誰が見ても同じ結論になる歴史を」
「客観」なる言葉がとっても大きな意味を持ったのは近世の西洋哲学においてである。西欧の哲学者たちがときには「悪魔の仮説」なんてものを持ち出してまで客観を得ようとしたのは、あの狭いヨーロッパという地域で数多くの民族が互いの価値観をぶつけ合っていた歴史と無関係ではない。価値観の違うもの同士が、それでも対話を成立させるために「誰が見ても同じ結論に至るもの」を必死で探したのだ。そんな西洋の哲学史は近代に至って曲がり、20世紀の各方面の学者により有耶無耶にされるわけだが、「誰が見ても同じ結論に至るもの」へのニーズが消えたわけではない。
父はいわゆる「戦中派」で、多くの知識人がそうだったように自分の価値観が一度敗戦で粉々にされたひとりである。それでも母校の「京大闘争」を伝説として聞き、歴史学の果たす役割について考えなかったはずがない世代でもある。太平洋戦争を経験し、父をビルマで失い、正確な情報をもって判断することができない状況の恐ろしさを知っているひとりでもある。
だから、なんとなくまとめると、父のみならず戦後の日本の歴史学が目指した「皇国史観からの脱却」というのは「特定の権力に属することなく、いかなる勢力の者が見ても納得しうる客観性を持った歴史学」であったろう。私はそう信じている。
この本のオビタタキ「アカですらない!」あたりまえである。アカなんて言う特定の勢力「のための」歴史なんか望んではいなかったはずだ。よく言われる「自虐史観」とんでもない話で、戦争でさんざん情報統制の憂き目に遭っていた世代が、砂漠で水を求めるように「本当のこと」を探したのだ。その流れを情報統制した側の子孫たち(現政府の面々)が止めようとするのはある意味当然である。反省がない、とも言うが。
(そいや、こないだ英国BBCで日本の駐英大使である林景一と中国駐英大使が討論して林景一が英国じゅうの物笑いのタネになったそうな。「そういう人材」をこれからもっともっと増やしたいのかねこの国は?)
多くの大学で歴史学は社会科学の一分野として扱われるが、「科学」を標榜するありとあらゆる学問には検証可能という原則がある。ネットでよく見られる「ソースは?」の根底になっているものだ。そんな中で本来「疑わしきは自国に有利に」など出来はしない。分からないものは「分かっていない」で十分なのだ。恥でもなんでもない。そういうものだからこそ、いや、そういうタテマエが歴史学にはあるからこそ、国同士の紛争で歴史が持ち出されるのだ。相手国に「あんたらカンチガイしているよ」と言えるのだ。
実際問題、じゃあ日本の歴史学界がどうなっているかと言うと、あまり褒められたものではないのは事実。文献史料至上の弊害か論考の材料が非常に限られ、研究者は検証可能のケの字もない自説を展開せざるを得ず、またそれで学会は回ってしまっている。日本史と世界史の差はあるが、父も似たようなことにアタマを抱えたはずだ。しかし歴史教育という場にあって、教えることだけは確かなことを、と、そういう心で教科書の執筆に挑んだであろうことは想像するまでもない。「他国の歴史教科書は自国有利が当たり前」なのは要するに歴史学を軽視しているから。それでもあくまで歴史学の範疇で確かとされているものを、あらゆる権力の道具としてではなく学生に届ける。そういう教科書が他ならぬ日本に存在していることは、むしろ日本が世界に誇るべきことだと思うのである。
この本の作者さん、若い人というのはとにかく「偽善」が大嫌いなのは中年のオレなんかよりあなたの方がよく知っているはずだ。若いあなたは社会のどんな偽善が許せないがためにこのような偽善を標榜するようになった?あなたが標榜した偽善はあなたの次の若い世代に蛇蝎のごとく嫌われるだろう。歴史の中で生きるってのはそういうことだ、と理解できてる?