無題ドキュメントってやつ

書店の辞め方がアレだったものでその後の展望など全くなく、食い扶持の確保のためバイトとして始めたのが中古PC売りだった。店は若い子が圧倒的に多く、それはそれは多くの刺激を得たものだが、バイトとしては破格の月給だったぶん、仕事は無茶苦茶キツかった。休憩含めの9時間が接客やレジのシフトが入っていた時間。当然仕事内容はレジ作業だけではなく、買取、値付け基準の作成、売り場づくり、月収支報告と来月目標の作成。これだけなら中古品店どこでもやってることだろうが、中古PCとしての特殊な部分、例えばOfficeのライセンス上の所有者の明確化や、Windows Updateをかけてから商品として出すか否かの問題。メモリモジュール、HDDなんかのテスト、買って行った客からの「エクセルがねーじゃねーか」みたいないちゃもんへの対処、レジストリに残っている元持ち主の痕跡の追跡と削除、などなど。もちろん話しかけて来る常連は容赦なく一時間とかいう単位で雑談して行くし、そんなこんなでタイムカードに保証された労働時間は一瞬で終わる。しかしいわゆるサービス残業をその後毎日6時間とか7時間とかやらない限り仕事は終わらない。なにしろPCセクションはオレ一人だった。仕事を残すことを考えると、とてものんびり休日を過ごす気にはならない。結果的には某牛丼チェーン並みの労働時間となった。自分で仕事をつくり、自分の望む店づくりをするための働きだから、苦と思うことはなかったが。
店のみなはいい方ばかりだったし、遣り甲斐は死ぬほど感じてはいたが、ある日、いつの間にかアタマが妙なことになっていることに気付く。
数字が読めない。固有名詞が(つい今しがた喋ってた相手なのに)出て来ない。言われたばかりの指示を三歩歩くと忘れる。
しまいにゃ同僚の名前の一覧表なんていう、誰にも見せられないメモを忍ばせて毎日を過ごすことになり、そこには実家に住む母の名前まで書かれていた。レジでの数字の読み上げる声が無駄に大きくなり客を不審がらせ、最終的には買取でヘマして「休ませてあげたいけど」と上司に言われて限界を自覚。退職ということになった。
精神病院に行くのには抵抗があったから県のその手の相談窓口に行くと、IQテストやらよくわからんテストやらを受けることになった後で「とにかく休め、うつ病とか若年性認知症を疑うのはじっくり休んだその後でいい」と言われることになる。
介護の道に入ったのはなんだかんだでその「ゆっくり休む時間」を専門学校の学生というかたがきを得ることでつくろうとした、というのが結構本音に近い。
その「相談」でオレを担当してくれた方のひとことが忘れられないのだ。
「今のまま病院に行けばなにかしらの病名の診断書書いてくれるとは思います。しかしそれをやってしまうとあなたの中の何かが完全に折れてしまいますよ」
障害者というかたがきを得るか得ないか、それを選べる程度の余裕があったということだし、症状がそれほど重度ではなかったということでもあるだろうが、その時腹の中に巻き起こった「精神障害者」という存在への愛憎入り混じった気持ち。友人がある日突然そういうかたがきになった過去、そのときの自分の気持ち、それになるかもしれない自分を今の友人がどう思うか。もろもろ。
ほんとうに、文章には諧謔がなくなった。人相も昔とはまるっきり違うと言われる。今の仕事で「アレ」がぶり返したら、と思うと冗談抜きで生活上「死」しか選べなくなる。仕事中にケアレスミスをするとその兆候か、と青ざめる。けど、自分が今「一般人」として生きることができていることをまぎれもなく「幸福」と捉えている。捉えてしまっている。心のどこかで「あいつら」みたいにオレは絶対ならないんだ!と、差別的な叫びを上げながら日々を乗り切っていることを白状する。
なので、やはり自分にとって、精神障害者が権利を主張する場、その偏見が糾弾されている場というのは、どうしようもなく鬼門であることを白状せざるを得ない。
ハンパに関わるくらいなら、申し訳ないけど切ります。